どんな人でも、大なり小なり間違いを犯すものですね。

大きな間違いを犯す人もいますし、些細な間違いで済む人もいます。

間違ったとき素直に自分の非を認めることは思いのほか難しいものです。

自分のことはよくわからないのですが、私は人を見ていて間違いを認めない人って本当にみっともないなと思うのです。

そして人のふり見て我がふり直せ、といわれているように感じることもけっこうあります。

仕事や日常生活における間違いであれば間違いに気づいたときに、今度は同じ間違いを犯さないようにするために何ができるのか考える必要があります。

そしてもっと大きな間違い、たとえば人生上の間違いをやらかしたと思ったときはどうしたらいいのでしょうか?誰にも自分の非を突かれることがない間違いはかえって自分を苦しめるのかもしれないですね。

間違いかどうかなんて誰にもわからないという場合も多く、自分だけが「人生を間違った、選択を間違った!」と思いこんでいる場合もあるのではないでしょうか?

今回は間違いを認められない人の特徴をまとめてみました。

️間違いを認められない人の15個の特徴

プライドが高い

プライドが高いのです。

自分の非を認めたら自分が負けたような気持ちになる、もしくは自分の評価が下がると思えるのです。

でもこれは逆にますます自分の評価が下がることになる態度ですがそれになかなか気づけません。

ただ、誰にとっても自分の非、間違いを認めることは難しいことだといえます。

自分の無能さ、弱さをさらけ出すような気持ちになるからです。

プライドが高い人にとって大切なものは「自分の評価」です。

自分の評価が下がることは受け入れがたいことなのです。

強そうに見えて実は傷つくことにおびえているのかもしれません。

自分が間違いを犯して、その非を認めないだけでなく、自分より優秀な人や恵まれた人の間違いやあらを見つけて批判することも見受けられます。

そしておもしろいことに、自分より劣った人のあらを見つけても批判するのです。

結局批判の多い性格といえます。

自分より優秀な人も自分より劣っていると思える人も批判するのであれば、自分と同等だと感じられる人に対してはどうなのでしょうか?
何をもって優劣を決めるのかは今は横に置いておいて、すべてにおいて同じくらい出来る人、劣った人というのは存在しないですよね。

そして微妙な優劣はあくまで主観的なものです。

プライドの高い人はその微妙な違いを見つけ出すのも長けています。

プライドの高い人は「人との比較」が心の寄り処になっていますので比較できない状況が嫌だという深層心理があります。

そして比較、競争においては常に自分が勝者でなければいけないのです。

「プライド」というのはいい意味でのプライドはその人を魅力的に見せることがあると思うのです。

本当の誇りに満ちた人は男性であっても女性であってもある種の輝きに満ちているものですが、見栄からくるプライドほど人を安っぽく見せることはないですね。

完璧主義


自分の間違いを認めたくないという人は往々にして完璧主義です。

完璧主義というのはどういう人のことをいうのかというと、ウィキペディアでは、「万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと」とあります。

または、「定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことであり、このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者」とあります。

このような人が何か間違いをしてしまったときにはそれを認めることは自分自身を否定するように思うのでしょうね。

完全主義は気をつけないと健康をも蝕んでしまいかねません。

グータラに生きよとはいえませんが、鷹揚さも必要です。

ただ性格は変えられないですから、いかに良い方へ発揮するかですね。

保守的なスタンス

間違いを認められない人は従来からの考え方ややり方、伝統を尊重する傾向があります。

いわゆる保守的な人たちである場合が多いです。

急激な変化や改革などを疎ましく思う傾向もあります。

改革派は、むしろ間違いを犯しつつ前進していきたいという気質があるかもしれません。

新たなこと、伝統や従来のやり方を少しずつ壊しながらでないと改革や変革はできないものです。

保守性と間違いを認められない性格の間には一見、関係性はないように思えませんか?
でも実はあるのですね。

変化すること、壊していくことにどこか恐怖心がある頑固者というわけです。

指摘されるのを嫌う


指摘されるのが嫌いなのです。

誰でも人からの指摘は受けたくないものですよね。

人からの指摘が嬉しくて仕方ないというのは逆におかしいです。

指摘されることによって何か他に目的や利益がある場合などではないでしょうか?たとえば好きな人と話ができるなどです。

人に指摘をされずに済むのであればそれにこしたことはないですね。

自分の間違いを認められる人は指摘をアドバイスととらえることができます。

アドバイスは次に活かそうとできるのですが、自分の間違いを認められない人たちは指摘は人から怒られた、責められたと受け止め、ひどい場合には自分を攻撃してくる!とまで思いこむ人もいます。

以前職場にいた女性で、上司からちょっとした指摘を受けるたびに、会社をやめたいという人がいました。

その人は指摘を受けたことがやめたくなる理由だということに自分でも気付いていたのでまだ救いがあったのですが。

年をとってくると周囲には自分より年下の人が多くなってきます。

年齢や立場は自分より下の人たちが増えるに従って、自分はその中で指摘される立場に甘んじたくないという気持ちにもなるようです。

そしてもし若い時からその傾向にあるのであれば、もともとそういう気質があると考えてよさそうですね。

また、もう1人は、自分がした仕事を人に一通りチェックしてもらわなければいけない立場にありました。

チェックしてもらわなければいけないということは間違いを指摘されることも多くなるということは仕方のないことです。

チェックが必要なのですから精度を望まれている職種でもあるのです。

人間がすることですからどうしても間違うこともあり、チェックする人から指摘されることも出て来ますが、それがどうしても受け入れられない様子でした。

こまるのはチェックをしているほうの人間です。

仕事だからチェックをしているのに指摘されることが受け入れられない同僚に気を使いながらの指摘になってしまいます。

人間関係にも支障が出て来るのです。

言い訳する

言い訳する姿って本当にみっともないなと、人を見ていて思うのですが、ついついやってしまいがちです。

「でも」「だって」が口癖

「でも」「だって」という言い訳としての口癖がいつも出て来ます。

でも、だって、は間違いをしたのだけれど、〇〇な理由があったため仕方なくそういうことになってしまった、ということが言いたいのです。

そしてだから自分はさほど悪くない、もしくは全然悪くない、ということまでも言いたいのです。

周囲からは言いわけがましい人だという目でみられるようになります。

人の言いわけを聞く方も嫌ですよね。

ドラマや映画の2枚目役の主人公や、シンデレラストーリー役の主人公がセリフで「でも」「だって」を連発するのを想像できるでしょうか?
それらのセリフひとつで2枚目が台無しになってしまいますよね。

責任転嫁する

でも、だってという言葉で自分の非を認めず、周囲に自分には非はないということを認めさすためには間違いの責任を人や他のもの、出来事に転嫁しなければいけません。

いつも巧みにそういったことを行う人がいますが、責任転嫁しているということはすぐわかってしまいます。

周囲にいる人への迷惑もたびたびになってきます。

責任転嫁しようとする真理とはどういうものかというと、自分が罪悪感でとても苦しんでいるのでくるしいのです。

苦しくて苦しくて仕方がない、誰かに手渡してしまいたいのが罪悪感というものです。

ある老人の話です。

人は年をとると物忘れが激しくなったり、若いころにはなんなくできていたことが上手くできなくなるようになることがあります。

そのことを一番よくわかり、気付くのは自分自身なのです。

どうしてできないのだろうと悲しく思うのも自分自身です。

年をとると強情になり人のいうことを聞かなくなるのは自分が老いて変わっていく姿を認めたくなくて、そしてその苦しい思いをどこかへやってしまいたいからなのかもしれませんね。

素直になれない

結局素直になれないのですね。

人が幸せに生きていくためにはこの「素直さ」がとても大切になってくるのではないでしょうか?
でも素直とは人のいいなりになることではありませんね。

ありのままを掛け値なしに見ることができるということです。

何をありのまま見るということなのかといえば、周りの出来事も、自分自身の言動も、そして自分の気持ちもです。

何かを変えようとするのではなく、そのものをあるがままにしておけるということには強さが必要です。

素直な人は強い人です。

謝罪ができない

人に謝ることができないという人がいました。

その人は言い訳もしないかわりに謝ることもできませんでした。

素直になれないと人に謝るということができません。

確かに間違いが何度か続いたときには謝罪したくなくなります。

その気持はとてもよくわかります。

「またか~」なんて人に思われるのが嫌で、誤ると自分の非を認めてしまうことになるので苦しいのです。

できれば出来た人間だと思われたいというのは誰でも持っている気持ちなのではないでしょうか?
ただ、あまりにも謝罪が出来ない人というのは、謝ると次からもっと責められるのではないかという気持ちも働いているのではないでしょうか?それだとますます謝罪できない人間になっていきます。

私は「バカで不出来な人間だと思われるととてもうれしい」という人はちょっとおかしいです。

だからこそ謝罪できる人は強いのですね。

それと、これは私の場合なのですが、間違いをしたとき最初は素直に非を認め反省もでき、謝罪もできるのですが、そこで性懲りもなく同じ間違いをまたしてしまったときに愚かさが出るなと感じます。

最初こそは素直になれるものの何度か目には「もう素直に謝罪するのは嫌だ!」になってしまうのです。

結局1回ならいいけど、続いてやってしまうと、「なんて愚かなんだ」と思われるに違いないと思って素直になれなくなるのです。

何度も間違いを犯すこと自体愚かなのにそれを認めることができないとなれば本当の愚か者ですね。

被害妄想しがち

間違いを認められない人は被害妄想しがちです。

指摘するほうは相手の人格まで否定する気などないのに間違いを指摘されることを自分自身を否定されているように感じるのですね。

犯してしまった間違いと自分自身を同一視してしまっているということです。

そして人が自分を攻撃してくるように思っているのかもしれません。

強情な性格ゆえ間違いを認められないということには間違いないですが、本来は被害妄想に陥っている気が弱い人なのかもしれません。

被害妄想の気がある人は、些細なことでも自分が被害を受けている、と大袈裟に考えてしまうようです。

「人はみんな自分を嘲笑っている」「自分間違えたことで人は自分を軽く見る」「どうせ自分はとるにたらない人間だ」「自分は本当にダメな人間だ」「何の才能も無い」。

もしかしたらその先に「自分など生きている価値がない」などとのたまうかもしれません。

ある女性で、「いいことを考えない」という人がいました。

自分に起こることはすべて悪い結果へと転がるとでもいいたげです。

その人の後輩がなにげなく「先輩のいないときに先輩の話をした」と言ったときでした。

するとその女性は烈火のごとく怒り始めたのです。

自分がいないときに悪口を言われたと勘違いしたようです。

話しをしたといっても悪口ではなかったので、後輩は驚きました。

でも問題なのはその後です。

その女性も自分が悪口をいわれていたのではなかったとわかりだしたようなのですが、後に引けなくなってきたのです。

意地っ張り

意地が張っている、意地っ張りです。

折れたら負けだとばかりにずっと意地を張った状態かも知れません。

気が強いということと意地っ張りは少し意味合いが違います。

気が強くても素直で意地っ張りでない人はいます、そして気が弱くておとなしく見えるけれど意地っ張りという人もいます。

自分の間違いを認められない人というのは、内心では間違いに気付いているにもかかわらず、意地を張って認めないという場合がほとんどです。

意地はいったん張り出すともとにはなかなかもどれないです。

ちょっと話はオーバーになりますが、喧嘩でも戦争でも、始めるより終わらせる方が難しいといわれています。

意地は張りすぎると自分が損をするだけです。