被害妄想の気がある人は、些細なことでも自分が被害を受けている、と大袈裟に考えてしまうようです。
「人はみんな自分を嘲笑っている」「自分間違えたことで人は自分を軽く見る」「どうせ自分はとるにたらない人間だ」「自分は本当にダメな人間だ」「何の才能も無い」。
もしかしたらその先に「自分など生きている価値がない」などとのたまうかもしれません。
ある女性で、「いいことを考えない」という人がいました。
自分に起こることはすべて悪い結果へと転がるとでもいいたげです。
その人の後輩がなにげなく「先輩のいないときに先輩の話をした」と言ったときでした。
するとその女性は烈火のごとく怒り始めたのです。
自分がいないときに悪口を言われたと勘違いしたようです。
話しをしたといっても悪口ではなかったので、後輩は驚きました。
でも問題なのはその後です。
その女性も自分が悪口をいわれていたのではなかったとわかりだしたようなのですが、後に引けなくなってきたのです。
意地っ張り
意地が張っている、意地っ張りです。
折れたら負けだとばかりにずっと意地を張った状態かも知れません。
気が強いということと意地っ張りは少し意味合いが違います。
気が強くても素直で意地っ張りでない人はいます、そして気が弱くておとなしく見えるけれど意地っ張りという人もいます。
自分の間違いを認められない人というのは、内心では間違いに気付いているにもかかわらず、意地を張って認めないという場合がほとんどです。
意地はいったん張り出すともとにはなかなかもどれないです。
ちょっと話はオーバーになりますが、喧嘩でも戦争でも、始めるより終わらせる方が難しいといわれています。
意地は張りすぎると自分が損をするだけです。
極端な自己評価
間違いを認められない人は自己評価が極端な人が多いようです。
自己評価は他人と比較、照らし合わせた自己評価と自分を尊ぶ気持ちを持ってどんな自分でも受け入れられるという意味のものがありませす。
後者の場合は自己評価は高ければ高いほどいいのですが、問題は前者の場合です。
自分の価値を他人と比較することでしか認められなくなると、その人といる周囲の人も疲れ、本人も疲れるはずです。
高すぎる自己評価
前者の意味で自己評価が高いと、自分より何かで劣った人を見下したりしがちです。
でも実際は他の部分で自分の方が劣っているところがあるものです。
高すぎる人は劣っている部分があることを認めたくないのかもしれませんね。
ある自己評価の高すぎるA人さんは、自分はどんな仕事でもこなせるという自信があります。
新しい仕事に取り組む際、きちんとした手順を踏むことが面倒くさくなるのです。
一見重要ではないようなところを飛ばして仕事を進めるので、手際も良く仕事も早いのですが、いつもいつもそう上手くはいきません。