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友達の地雷を踏んだらどうなる?意味...(続き5)

実際、筆者の姉が鬱で、10年近く働くことが出来ませんでした。

しかし、働きに出られなかったとはいえ、鬱克服のために精力的に行動していたし、その姿勢は、何ら恥じるものではありませんでした。

ですので筆者は、姉が鬱になったことに、恥ずかしさはありませんでしたし、隠したいとも思いませんでした。

ただ、姉が鬱であることを話すと、「頑張ってって言っちゃいけないんでしょ」という中身のない理解や、気まずそうに同情をされることが多かったのです。

もちろん、病気の事は本人や、その家族にしか分からない部分も多々あります。

ですので、全てを理解することは難しいことです。

それに、他人の事にそこまで親身になれる人も、そうはいません。

もちろん、筆者だってそうです。

でもだからこそ、気軽に病気の話には触れないほうが良いとも言えるのでしょうね。

気持ちに寄り添うことが出来ないのなら、わざわざ触れて傷つけることはないだろう。

それに、偏見の目で見るなら、病気の話はオープンにしないほうがお互いに良いだろう。

ということです。

しかし、それってちょっと、冷たい風潮のようにも思えます。

人々がもっと他人の気持ちに寄り添い、親身になってあげることが出来れば、病気の話のみならず、タブーなんてなくなるのかもしれません。

気が遣えない人が多いからこそタブーが生まれ、そういった心無い人に傷つけられる人がいるからこそ、地雷が生まれるのではないでしょうか…。

とはいえ、筆者が違うとは言えません。

筆者を含め…私たちは、もう少し他人に寄り添い、正しく理解する姿勢を示したいものですよね。

9. 宗教の話

地雷になる話としては、「宗教の話」もあります。

ただ宗教の話の場合、これまでの地雷になる話題とはちょっと性質が違うのかもしれませんね。

なぜかというと、宗教に入っている人が、それをコンプレックスに思っているとは考えにくいからです。

本人は、その宗教の教えに対して信頼を置いているはずだし、深い信仰心があるはずです。

となれば、むしろ聞いて欲しいし、聞いてもらってその宗教を広めたいという思いもあるでしょう。

…つまり、宗教に入っている本人とっては、何ら問題のない話題です。

問題があるのは、むしろ聞いたほうでしょう。

その宗教にまったく興味が無かったりすれば、勧誘を受けたり、延々とその宗教の教えを説かれたりして、ある意味巻き込まれた状態になってしまいます。

宗教をしている人にとっては「地雷を踏まれた!」とはならないけど、聞いたほうが「地雷を踏んだ!」と後悔する事態になるということですね。

また、宗教は時に、異教徒との対立で紛争が勃発する等、危険な行為に発展することもあります。

もし、自分の信仰している宗教と、相手の宗教が対立関係にあったら、どんなトラブルが巻き起こるか分かりません。

日本は比較的無宗教の人が多いため、宗教間のイザコザとは無縁だと思っている人も多いでしょう。

そのため、宗教を信仰している人の気持ちが分からなかったりもします。

ですが、日本にも宗教信仰のある人は、知らないだけで結構いるのです。

それを知らずに、宗教の悪口でも言ってしまったら…それはそのまま、地雷になってしまいます。

宗教の中には、過激思想がある場合もありますから、他の地雷の例のように、相手の気持ちを思いやるというだけでは、済まない場合も考えられます。

無宗教の人は特に、宗教の話はタブーだと思っていた方が賢明でしょう。

世の中には地雷がたくさん!

ここまでは「地雷だなと思った、人間関係で触れてはいけないこと」について、お話してきました。

地雷はその名の通り、爆発して、触れた者が被害を受けるものです。

これまでご紹介してきた事例も、相手が触れて欲しくない部分に触れることによって、相手の爆発を誘発する可能性があるということです。