それは、本来は人それぞれの考え方や感性によって相違があってもおかしくないのです。
その違いが必ずしも悪いものではないのに、一つの考えを”常識”として唯一正しいことのようにしているものです。
そのような間違った”常識”は、その常識と言われていることと違った考えや感じ方を持つ人を悪者にしたり、苦しめたりすることがあります。
だから、自分が今縛られている常識って本当の常識なの?ということを考えてみてください。
本当に自分が考えてること、感じていることを正直に見つめるきっかけになるかもしれません。
「〜ねばならない」という意識も外す
大人の中での常識を疑う際には「~ねばならない」という意識についても、ちょっと考えてみてください。
「大人は~しなければいけない」「~するのが普通だから、~しなければいけない」。
このように自分の意思とは関係なく、決められていることってありますよね。
この場合も単に「常識だから・・・」という自分なりの根拠や動機がなくてもやっていることが多いのではないでしょうか?
でも子どもって、「どうして?」「なんで?」ということをよく聞きます。
「~ねばならない」ということに対して、自分が納得することを求めます。
でも、社会に出ると考える暇もなく「こうするべき」という考えから逸脱することは許されないような感覚を持ちます。
そのような意識をいったん外してみることによって、自分の考えや正直な気持ち、さらにそうする根拠や理由をもう一度考えるきっかけになります。
そもそも純粋さとは何?
人が思う純粋な人っているイメージって、多少のバラツキがあります。
そこで、そもそも「純粋さ」という言葉について、本来の意味をちょっと調べてみました。
辞書的な意味はこう
「純粋」という言葉を辞書で引くと、いろいろな意味が出てきます。
「純粋」という言葉は人に対して用いられるだけでなく、ものや哲学的なものに対しても使うことがありますよ。
まじりけがない
まず、「純粋」という言葉の意味として、「まじりけのないこと。」「雑多なものがまじっていないこと。またそのさま。」となります。
お酒に関しても「純粋なアルコール」といいますよね。
添加物などが入っていない、混じりけのないものを指しますね。
さらに、犬も「純粋な秋田犬」というように使うことがあります。
邪念がない
「邪念や私欲のないこと。」「気持ちに打算やかけひきのないこと。またそのさま。」という意味もあります。
「純粋な愛情」など、まったく嘘も裏もないまっすぐな気持ちなどに使われますね。
ひたすら行うさま
「ひたむきなこと。またそのさま。」「あることをいちずに行うこと。」
「純粋な情熱」という表現があるように、あることをいちずに追い求める様子を表すこともあります。
実際は、どうなの?
さらに、哲学の面でいえば、「外的、偶然的なものを含まず、それ自体の内的な普遍性・必然性を指す」こともあるようです。
学問の分野でも「純粋数学」「純粋法学」というように、「応用を考えず理論だけを追求する」分野を意味することもあります。
ということで、「純粋さ」を言葉として定義すると、このようになるわけです。
実際のところ、純粋さをはっきりと捉えることってちょっと難しいですね。
人によって、感覚や見え方が違ってくるので人に対しては特に、はっきりと理解するのが難しいのかもしれません。
子どもに対して使う無邪気という言葉にヒントが
でも、辞書で調べたことによると、なんだかやはり、子どもたちの持つまっすぐで邪念のない姿が「純粋さ」になるような気がしませんか?
つまり「無邪気」な姿です。