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「可哀想」と「可愛そう」の違いは何...(続き3)

「かわいい」の語源は「気の毒」であり、それは「手を差し伸べてあげたくなる感情」であり「同情」であったわけなのですが、これって本当はその対象となっていた人物がもしかしたら「絶世」の美女だったりしたから、出て来た発想だったのかも分かりません。

実際、「可哀想」が「可愛い」という見方に変わってきたのは中世の後期くらいから、という説があるようです。

これ、時代的に見れば江戸時代の中期以降のことを指しているのでしょう。

考えてみてください。

江戸時代の前は戦国時代です。

皆、食べていくのがいっぱいいっぱいの時代です。

今のような職業が確立していた時代ではありません。

食糧事情が満足いくものだったわけでもありません。

皆、明日の我が身を心配して生きていた時代です。

そんな時代に「美」や「風流」を楽しむ余裕が庶民の間にあったでしょうか?

少なくとも庶民の暮らしが安定し始めるのは江戸時代になってからです。

江戸が中世の当時、世界でも有数の繁栄した都市になるまではとてもとても気持ちの上で余裕などなかったはずです。

だから、「目立ってしまう人」「満足に働けない人」というのは「可哀想」という範疇に入れられてしまい「手を差し伸べたくなる感情」や「同情」を人々に思わせてしまった、という考え方は飛躍し過ぎているでしょうか?

5.近世にかけ「そう」をつけた「かわいそう」が派生

さて、そうこう言ううちに近世に入って「かわいい」に「そう」という文字が付け加えられていきます。

「そう」は「~のようだ」「~っぽい」「~のように見える」といった断定ではなく想像や予想の概念ですよね。

つまり、「気の毒」と思うかどうかについて、はっきりと断定するのではなく、可能性を含ませながらも相手の人権というか、人間性を尊重するものの見方に変化していったようになってくるのです。

これらの発想は、それまでの鎖国政策を放棄し西洋の発想や文明に触れたからこそ起こり得た「明治維新」の一つの恩恵ではないでしょうか?

確かに近世に入ったからといって人々が皆、平等に暮らせていたわけではありません。

貧富の差は歴然と残っていますし、教育も全国民に浸透していたわけでもありません。

それでも人道的な立場から、身体的障害や欠陥、困窮する暮らしによる住まいや身なりの状態などを指して、「かわいい」とはなから差別するような言い方ではなく「かわいそう」というように、「そう」をつけて「かわいい」とは一線を画したところに人々の意識の変遷ぶりをうかがい知れるようになったわけです。

6.中国で「可愛(コーアイ)」という漢字が

またこれは当時の偶然なのかどうかは定かではありませんが、中国語で「可愛い」というのは「可愛」(コーアイ)と表現するようです。

日本語は元々、大陸から経由されてきたものが独自の進化・発展を遂げた言語です。

しかしながらその語源というかルーツを遡れば中国語に行き着くのは当然の成り行きであるでしょう。

「かわいい」イコール「コーアイ」。

どこか読み方も似通っていますよね。

そして「可愛」もそのまま今の「可愛い」に愛通じている書き方です。

中国も日本も、「美」の意識はさほど大きくかけ離れていない、という事が言えるのでしょうね。

7.「可哀想」も「可愛そう」も当て字であるといえる


結局のところ「可哀想」も「可愛そう」も現代においてはほぼ同じ意味でとられているという事がいえそうです。

そして両者の漢字も今では完全な「当て字」としてその存在を残している、といったところでしょうか。

つまりどちらの漢字を使っても、意味的には合っているという事です。

どちらも「不憫」「同情」「気の毒」といった悪いイメージで使われる、という事です。

ただ、相手のことがペットや小さい愛玩動物が如くの「かわいらしさ」があるのなら、文字で書く時は「可愛い」の方が相応しいでしょうね。

意味はどっちも同じと言っておきながら、書くときは書き分けて使った方がいいとか、日本語は本当にややこしいものですね。

ただ、日本では「可愛い」というのは褒め言葉の一つとして定着したようですが、西洋の女性にこれをそのまま使うと怒りを買う一幕になってしまう事を忘れないでくださいね。

英語では「可愛い」は「プリティ」。

「プリティ」はペットや愛玩動物に使う言葉のようなのです。

だから、西洋の女性を褒めようとして「可愛い」を連発したら、相手は「自分は動物と同じか!」といった剣幕になって場の雰囲気が一変にかわってしまうかもしれませんので。