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「可哀想」と「可愛そう」の違いは何...(続き6)

全部で5つのご紹介です。

同情すべき

「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の1つ目は「同情すべき」です。

「可哀想」や「可愛そう」から連想されるのは、酷い状態になって打ちひしがれている人の状態です。

そのような状態を目の辺りで見た人間ならば、迷うことなく「同情すべき」心が芽生えるはずです。

よっぽどの「悪鬼」でない限り人は他者の不幸や悲しみに対して「同情」する「正義心」というものもっています。

だからと言って、何らかの好きや手を差し伸べてあげる人間ばかり、という訳ではありません。

物理的な救助や応援は全ての人が出来るとは限らないからです。

しかし、「同情」する気持ちがあるから手助けや応援が行われるはずです。

相手の不幸につけこんで更なる追い打ちのようなダメージを与える人間は、正真正銘、地獄に落ちるでしょうね。

やりきれない思い

「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の2つ目は「やりきれない思い」です。

考えてもみてください。

あなたがまともな精神を持っているなら、あなたの隣にいる人がしくしく悲しげに泣いていたら、どうしますか?

関わりたくないから無視しますか?

まあ、それもありかも分かりません。

関わったからと言って事態が解決するわけでもありませんから。

しかし、「あれ?どうしたのだろう?何故泣いているんだろう?」くらいの良心は働くはずですよね。

これが人間の素直な「可哀想」や「可愛そう」に対する思いなのです。

これがあるうちは人間が人間としての本分を忘れずに生きていける証明だと思うのですよね。

「可哀想」「可愛そう」と思った人間は、「やりきれない思い」を胸に抱くものなのですよ。

慈悲

「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の3つ目は「慈悲」です。

普通の神経をしていたら、不幸のど真ん中にいる人間を見て、さらに追い打ちをかけるような悪態はしないでしょう。

その人が何とかして、今の最悪な状況から抜け出してくれるよう願うでしょう。

そのような気持ちになる人は、例えその対象たる人間が悪人であったとして、そっと見逃してあげるのではないでしょうか?

それが教えられたわけでもないのに人間が持つ「慈悲」という意味の深い心です。

人間は「可哀想」と感じた事実を見てしまったら、目を避けきれないものです。

手を差し伸べてあげたいけどそれは無理。

でも、何とかしてその人が全うな暮らしにつけるよう心から祈る行為は出来るものなのです。

「慈悲」の心。

教えられたわけでもないのに自然と心の中に備わっているもの。

人の悲しみを慈しめる人に悪人は一切、いない、と私は固く信じていますよ。

同情の気持ち

「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の4つ目は「同情の気持ち」です。

「可哀想」あるいは「可愛そう」と思える人間を目の前にして「同情の気持ち」を起こさない人間は皆無なのではないでしょうか?

それほど、「可哀想」あるいは「可愛いそう」な状況というのは言葉では言い尽くせないほどの人生における「一大事」と言えるのです。

そして、そんな状況に陥った人に対して、あなたが自然に見せるこの「同情」という気持ち。

そこには一切の打算もしがらみもありません。

ただ純粋に目の前の人の最悪を何とかしたい、という思いだけで沸き起こった発想なのです。