日本語というものは本当にややこしいですね。
今回、取り上げました「可哀想」と「可愛そう」。
耳で聞けばそちらも同じ読み方ですのでそのまま何となく聞いていたら、いったいどっちの意味で相手がその言葉を言ったのか、判別が難しくなってしまう事でしょう。
さらに「可哀想」と「可愛そう」はそもそも意味が全く違うのでしょうか?
それとも意味的には同じなのでしょうか?
「可哀想」と「可愛そう」の共通点
それではまず「可哀想」と「可愛そう」の共通点の方からみていきましょう。
字で書けば確かに意味合いは大きく違っていそうなこの両者。
果たしてどのような共通点があるのでしょうか?
読み方:かわいそう
まずは「可哀想」と「可愛そう」の読み方からです。
両方とも「かわいそう」と読みます。
だから会話中にどっちの意味が色濃く反映されているのか微妙なのです。
相手の会話の前後をよく聞いておいて判断するしかありません。
「哀」と「愛」では意味が全く違ってきますからね。
意味
では次に「可哀想」と「可愛そう」の意味を紹介して参りましょう。
弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況からすっくってやりたいと思うさま
「可哀想」と「可愛そう」の意味ですが、実は両者とも根本的には同じものと解釈されています。
その意味は「弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況からすくってやりたい、と思うさまを表しています。
そもそも「可哀想」も「可愛そう」も同じ意味として見なされていた言葉なのです。
その意味合いは非常に不幸な有様や深く同情を誘ってしまうような状況に対して、心から憐れみや何とかしてあげたい、という気持ちを引き起こさせるような心理状態に自らが陥ってゆく様を言い表しているのです。
同情をさそうさま
つまり「可哀想」も「可愛そう」も、どちらも相手が目も覆いたくなるような酷い状況や惨状を抱えていて、それを見るに堪えられず、何とか救ってあげる事は出来ないものか、と心を悩ませる、あるいは心を痛めさせるような状況になっていることが「可哀想」や「可愛そう」というものの真の意味になるようですね。
ところが、ここで疑問に思うのはやはり両者の漢字が違うのに意味が同じだ、と言っているところでしょうね。
こんな説明では矛盾だらけ。
いい加減な紹介はやめてくれ!という声が聞こえてきそうです。
そこで次からは「可愛そう」と「可愛そう」の違う点についてみていく事に致しましょう。
「可哀想」と「可愛そう」の違いは
先ほども書きました通り、「可哀想」と「可愛そう」とでは読み方は同じだとは言え、漢字が違っているので同じ意味にとってしまうにはかなり無理があるような気がしますね。
そこでここからは「かわいそう」についてその語源やどうして今のように2つの違う漢字になってしまったのか?についてみていく事に致しましょう。
1.「かわいそう」の語源は「かわいい」
まず「かわいそう」の語源から参りましょう。
「かわいそう」はもともと「かわいい」が語源です。
そこにいつしか「そう」がくっついて現在のような言い方となって定着しているのです。
「かわいい」とだけ聞いたら「可愛い」に直結しそうな感じがしますよね。
しかし「かわいい」にはもともとそういった感じの意味には取られていませんでした。
そう、「可哀想」の方をイメージさせる意味として捉えられていたのです。
2.「かわいい」の古語は「かはゆし」
「かわいい」を更に古語としてみていきましょう。
「かわいい」を古語でみると「かはゆし」という表現になっていました。
「かはゆし」、これだけ聞いても今の時代では全くピンときませんね。
「かはゆし」とは一体、どういう捉えられ方をしていたのでしょうか?
「かはゆし」は「かほはゆし(顔映ゆし)」が変化したもの
「かはゆし」というのは「かほはゆし」という言い方が変化していったもの、とみられているようです。
「かほはゆし」、これをもっと分解すると「顔」プラス「映ゆし」となったようです。
ここまで分解していけば、勘のいい人だったら何となくピンときた方もいらっしゃるかも分かりませんね。
「顔」が「映ゆし」という状況に陥っていることを意味するこの古語。
さあ、もっと分解してその意味を辿っていってみましょう。
「顔映ゆし」とは、顔を向けていられないということ
「顔映ゆし」というのは、「顔を向けていられない」状態を指しているのです。
つまり、相手の人の状況があまりにひどく、目を正対させることすらままならない尋常ならざる状態になっている事を意味しているのですね。
この意味合いはズバリ、今の「可哀想」に通じている意味と言えますよね。
つまり「可哀想」のルーツはこの「顔映ゆし」から来ていた、という事になるのです。
気の毒、不憫といった意味合いがある
「顔映ゆし」の状況を更にもっと砕いてみていきましょう。
とにかく、相手の人の置かれた状況が悲惨を極めている状態をいいます。
だから、こちらは思わず目を逸らしてしまう、顔をまともに合わせることも出来ない、といった状態を指しているわけです。
例えば、失恋して思いっきり落ち込んでいる状態、仕事で失敗して、慰めようと思っても自暴自棄に陥っている状態。
あるいは汚い話しですが、昔のように田んぼの横に肥溜めがあった時代にそこに落ちてしまって何とか助け上げられたが全身汚物だらけで悲惨な姿になってしまっている状態、と様々です。
しかし、「顔映ゆし」を時代的に最も端的に言い表していた状態は、死に至るような酷い暴行、リンチを加えられ瀕死の状態で横たわっている姿だったのかもしれません。
昔の人々はこのような状態をみて、「何とか助けてあげたい」「しかし、あれでは手の施しようもない。だから顔をそむけるしかない」と心理になっていたのでしょう。
だから、「可哀想」という漢字がこのように書くようになったのかも分かりませんね。
3.「かわいい」は「気の毒」という意味だった
一方、「かわいい」の方の語源ですが、ルーツ的には「かわいそう」とほぼ同じようです。
「気の毒」「ご配慮します」といった意味合いで人々からは忌避されていた、というのが元々の意味合いとして理解されているようです。
この「気の毒」という表現、これは明らかに相手の人が身体的にも精神的にも不幸の真っ只中にいる事を指しているわけです。
だから、手を差し伸べてあげたいけど、恐れ多過ぎて自分如きでは手が出せない、といったように取られていたのでしょう。
しかし、時代の変遷と共に「かわいい」の方の見方は段々、変化していきます。
つまり今まで「気の毒」と思っていた対象が「可哀想」から「可愛そう」に気持ちの変化が表れてきた、という訳です。
4.その後「かわいい」は「愛らしい」という意味に
「かわいい」は今の時代なら理屈抜きに最高の褒め言葉です。
と、同時にそれは「美」の意識の観念をも変化させてきた「表現」に変わってきているのかもしれません。
しかし、まだ「かわいい」が「可愛い」という意識になっていなかった時代は、普通の人と同じじゃないから気の毒だ、不憫だ、という概念で見られていたようです。
つまり、まだまだ世間に「美意識」というものが一般化されていなかったから、とも言えるのではないでしょうか?
この辺りに「世間」という目に見えない概念が幅を利かせていた時代性を感じずにはいられませんよね。
今の時代に当てはめてみたら「個性的」「独創的」といったものだったのかもわかりません。
しかし、時代の変遷とともに、それまで「気の毒」とみられてきていたものが、真に「可愛い」「愛おしい」というものに段々と変貌してゆくのです。
手を差し伸べたくなる感情、同情を示す
「かわいい」の語源は「気の毒」であり、それは「手を差し伸べてあげたくなる感情」であり「同情」であったわけなのですが、これって本当はその対象となっていた人物がもしかしたら「絶世」の美女だったりしたから、出て来た発想だったのかも分かりません。
実際、「可哀想」が「可愛い」という見方に変わってきたのは中世の後期くらいから、という説があるようです。
これ、時代的に見れば江戸時代の中期以降のことを指しているのでしょう。
考えてみてください。
江戸時代の前は戦国時代です。
皆、食べていくのがいっぱいいっぱいの時代です。
今のような職業が確立していた時代ではありません。
食糧事情が満足いくものだったわけでもありません。
皆、明日の我が身を心配して生きていた時代です。
そんな時代に「美」や「風流」を楽しむ余裕が庶民の間にあったでしょうか?
少なくとも庶民の暮らしが安定し始めるのは江戸時代になってからです。
江戸が中世の当時、世界でも有数の繁栄した都市になるまではとてもとても気持ちの上で余裕などなかったはずです。
だから、「目立ってしまう人」「満足に働けない人」というのは「可哀想」という範疇に入れられてしまい「手を差し伸べたくなる感情」や「同情」を人々に思わせてしまった、という考え方は飛躍し過ぎているでしょうか?
5.近世にかけ「そう」をつけた「かわいそう」が派生
さて、そうこう言ううちに近世に入って「かわいい」に「そう」という文字が付け加えられていきます。
「そう」は「~のようだ」「~っぽい」「~のように見える」といった断定ではなく想像や予想の概念ですよね。
つまり、「気の毒」と思うかどうかについて、はっきりと断定するのではなく、可能性を含ませながらも相手の人権というか、人間性を尊重するものの見方に変化していったようになってくるのです。
これらの発想は、それまでの鎖国政策を放棄し西洋の発想や文明に触れたからこそ起こり得た「明治維新」の一つの恩恵ではないでしょうか?
確かに近世に入ったからといって人々が皆、平等に暮らせていたわけではありません。
貧富の差は歴然と残っていますし、教育も全国民に浸透していたわけでもありません。
それでも人道的な立場から、身体的障害や欠陥、困窮する暮らしによる住まいや身なりの状態などを指して、「かわいい」とはなから差別するような言い方ではなく「かわいそう」というように、「そう」をつけて「かわいい」とは一線を画したところに人々の意識の変遷ぶりをうかがい知れるようになったわけです。
6.中国で「可愛(コーアイ)」という漢字が
またこれは当時の偶然なのかどうかは定かではありませんが、中国語で「可愛い」というのは「可愛」(コーアイ)と表現するようです。
日本語は元々、大陸から経由されてきたものが独自の進化・発展を遂げた言語です。
しかしながらその語源というかルーツを遡れば中国語に行き着くのは当然の成り行きであるでしょう。
「かわいい」イコール「コーアイ」。
どこか読み方も似通っていますよね。
そして「可愛」もそのまま今の「可愛い」に愛通じている書き方です。
中国も日本も、「美」の意識はさほど大きくかけ離れていない、という事が言えるのでしょうね。
7.「可哀想」も「可愛そう」も当て字であるといえる
結局のところ「可哀想」も「可愛そう」も現代においてはほぼ同じ意味でとられているという事がいえそうです。
そして両者の漢字も今では完全な「当て字」としてその存在を残している、といったところでしょうか。
つまりどちらの漢字を使っても、意味的には合っているという事です。
どちらも「不憫」「同情」「気の毒」といった悪いイメージで使われる、という事です。
ただ、相手のことがペットや小さい愛玩動物が如くの「かわいらしさ」があるのなら、文字で書く時は「可愛い」の方が相応しいでしょうね。
意味はどっちも同じと言っておきながら、書くときは書き分けて使った方がいいとか、日本語は本当にややこしいものですね。
ただ、日本では「可愛い」というのは褒め言葉の一つとして定着したようですが、西洋の女性にこれをそのまま使うと怒りを買う一幕になってしまう事を忘れないでくださいね。
英語では「可愛い」は「プリティ」。
「プリティ」はペットや愛玩動物に使う言葉のようなのです。
だから、西洋の女性を褒めようとして「可愛い」を連発したら、相手は「自分は動物と同じか!」といった剣幕になって場の雰囲気が一変にかわってしまうかもしれませんので。
こういったところが日本語の国際性のなさ、と言えるのかも知れませんね。
「可哀想」と「可愛そう」の類語や関連語
それでは次に参りましょう。
「可哀想」と「可愛そう」の類語や関連語のご紹介です。
ここまでも結構、いろいろな用途や意味をご紹介する際にたくさんの漢字が出てまいりました。
きっとそれらの中にも今からご紹介するものが出てくるかも分かりませんね。
軽蔑と哀れみが混合した刺激
まずは「可哀想」と「可愛そう」の類語のご紹介です。
軽蔑と哀れみが混合した刺激を感じさせるのがこの言葉の本来の意味。
全部で5個のご紹介となります。
憐れ
「可哀想」と「可愛そう」の類語の1つ目は「憐れ」です。
この「憐れ」という表現。
これの意味は「人から同情されるような状態」であり、同時に「惨め」という状態も入ってきます。
とにかく人から憐れまれる。
つまり生活ぶりが困窮を極め、食べるものも着る者もままならない。
特に子供がそういう状態になっていたら、一層「憐れさ」というものを感じずにはいられない心理状態を言います。
つまりそれが「可哀想」という気持ちになるわけですよね。
そういった気持ちになったなら、あなたならどうしますか?
何とかして助けてあげたい、という気持ちにならないでしょうか?
昔、女優の安達祐実さんが演じたかの有名なドラマ「家なき子」。
まさに視聴者に「可哀想」という気持ちを同時体験させた名ドラマですよね。
そしてドラマの中で安達祐実さんの名セリフがありました。
「同情するなら金をくれ!」。
まさしく「可哀想」と思った人ならば、誰でも行いたくなる「同情」。
それを主人公の祐実ちゃんは頑なに拒否して逞しく生きてゆく姿を懸命な演技で魅せてくれていました。
このように「可哀想」と「可愛そう」には「憐れ」という言葉が対のようになって並びます。
まさしく最強タッグのような類語なのです。
情けない
「可哀想」と「可愛そう」の類語の2つ目は「情けない」です。
いわゆる「負け犬状態」、あるいは「中身がない」「カッコつけすぎ人間」とでもいいましょうか。
つまり「情けない」状態の人間というのは「憐れさ」も加わって他者からの同情を一身に浴びてしまう状況になっている、という事です。
例えば、「おちぶれ」でしょう。
かつては商売も上手くゆき、知る人ぞ知る地元の名士という存在だったのですが、現在は仕事を失敗してしまい家も落ちぶれてかつての栄華の名残など全くない様に変わり果てている、と言ったらいいでしょうか。
とにかく、それでも虚勢を張る事だけは昔のまま。
でも、お金がないから誰も見向きもしない。
没落を絵に描いたような急降下人生。
それを周囲の人が「情けない」と思うな、と言っても無理があるでしょう。
確かにお金持ちが仕事に失敗して一文無しになった姿は「可哀想」という表現がぴったりきます。
周りの人間はただ「同情」するだけ。
これが世間の一面を垣間見せる風景なのかも分かりませんね。
涙ぐましい
「可哀想」と「可愛そう」の類語の3つ目は「涙ぐましい」です。
「涙ぐましい」にはそのあとに「努力」という言葉がよくつきますね。
「涙ぐましい努力」という言葉はよく耳にする言葉だと思います。
例えばダイエット。
特に女性が目標体重目指して頑張る姿は応援したい気持ちを通り越して、一種の「恐怖」すら覚えさせてしまうほど壮絶なものを感じさせる場合があります。
まさに「手が出せない」「救ってあげたいけど無理」「お気の毒」という言葉の連想しか浮かんでこないくらい厳しいものがあります。
努力というものは、人に見せない方がいい場合が多いと思うのですよね。
特にダイエットにおける努力は人前にさらさない方が本人のためにも周囲の人のためにもいいでしょう。
過度なダイエットは体内から糖質を奪い去り、精神面に良くない影響も与えたりします。
とって気持ちと身体のバランスが一致しないようになり、鬼の形相の如く、ダイエットにのめり込んでいってしまう、というパターンが結構多いからと思うからです。
このような姿を晒したら、確かに周囲の人は「可哀想」と思って避けてしまうでしょうね。
気の毒
「可哀想」と「可愛そう」の類語の4つ目は「気の毒」です。
そうですね、「可哀想」も「可愛いそう」も元々の意味をひも解けば「気の毒」が必ずついてきますからね。
「気の毒」というのは、その人が常軌を逸するくらいの不幸や悲しみを背負ってしまった状態を見て、周囲の人が感じてしまう心の感情です。
出来る事なら手を差し伸べて救ってあげたいのは山々なのですが、どうすることも出来ません。
だからせめてもの良心の呵責として「気の毒」という気持ちを起こすのです。
例えば、最愛の妻を若くして失ってしまった亭主の悲しみ。
察するに忍びないほどの悲しみと憔悴になってしまいます。
こんな状況になってしまったら周囲のものはどうやって救ってあげたらいいのでしょう?
「可哀想」は本当にこのような状況がピタッとはまってしまうのです。
出来ることならこのような「可哀想」や「可愛そう」な状態に陥ってしまう事態、勘弁願いところですよね。
無惨
「可哀想」と「可愛そう」の類語の5つめは「無残」です。
「無残」という状態、あなたは想像がつきますか?
それは口では言い切れないくらいの「心」と「身体」のズタボロさ具合を言っているのです。
例えば肉体的なところを指すならば、交通事故でペッチャンコになった車の状態を想像してみてください。
もしこれが人間の姿だったら…。
とても想像に絶えない状況ですよね。
無残と言うのはこれくらいのダメージを指していると思ってもらいたいのです。
心の方の「無残」さも重症です。
自分の家族が一瞬のうちに言われもしない理由で悪鬼のような人間に通り魔的に殺害されてしまったら…。
もう尋常な精神状態は保てないでしょう。
心が無残にも引き裂かれた、という表現はまさしくこのような状態を言うのでしょう。
「可哀想」や「可愛そう」に通ずる心のダメージは、「無残」という言葉がよく表しているということを認識してくださいね。
連想される言葉
それでは次です。
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉をピックアップしてみましょう。
全部で5つのご紹介です。
同情すべき
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の1つ目は「同情すべき」です。
「可哀想」や「可愛そう」から連想されるのは、酷い状態になって打ちひしがれている人の状態です。
そのような状態を目の辺りで見た人間ならば、迷うことなく「同情すべき」心が芽生えるはずです。
よっぽどの「悪鬼」でない限り人は他者の不幸や悲しみに対して「同情」する「正義心」というものもっています。
だからと言って、何らかの好きや手を差し伸べてあげる人間ばかり、という訳ではありません。
物理的な救助や応援は全ての人が出来るとは限らないからです。
しかし、「同情」する気持ちがあるから手助けや応援が行われるはずです。
相手の不幸につけこんで更なる追い打ちのようなダメージを与える人間は、正真正銘、地獄に落ちるでしょうね。
やりきれない思い
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の2つ目は「やりきれない思い」です。
考えてもみてください。
あなたがまともな精神を持っているなら、あなたの隣にいる人がしくしく悲しげに泣いていたら、どうしますか?
関わりたくないから無視しますか?
まあ、それもありかも分かりません。
関わったからと言って事態が解決するわけでもありませんから。
しかし、「あれ?どうしたのだろう?何故泣いているんだろう?」くらいの良心は働くはずですよね。
これが人間の素直な「可哀想」や「可愛そう」に対する思いなのです。
これがあるうちは人間が人間としての本分を忘れずに生きていける証明だと思うのですよね。
「可哀想」「可愛そう」と思った人間は、「やりきれない思い」を胸に抱くものなのですよ。
慈悲
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の3つ目は「慈悲」です。
普通の神経をしていたら、不幸のど真ん中にいる人間を見て、さらに追い打ちをかけるような悪態はしないでしょう。
その人が何とかして、今の最悪な状況から抜け出してくれるよう願うでしょう。
そのような気持ちになる人は、例えその対象たる人間が悪人であったとして、そっと見逃してあげるのではないでしょうか?
それが教えられたわけでもないのに人間が持つ「慈悲」という意味の深い心です。
人間は「可哀想」と感じた事実を見てしまったら、目を避けきれないものです。
手を差し伸べてあげたいけどそれは無理。
でも、何とかしてその人が全うな暮らしにつけるよう心から祈る行為は出来るものなのです。
「慈悲」の心。
教えられたわけでもないのに自然と心の中に備わっているもの。
人の悲しみを慈しめる人に悪人は一切、いない、と私は固く信じていますよ。
同情の気持ち
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の4つ目は「同情の気持ち」です。
「可哀想」あるいは「可愛そう」と思える人間を目の前にして「同情の気持ち」を起こさない人間は皆無なのではないでしょうか?
それほど、「可哀想」あるいは「可愛いそう」な状況というのは言葉では言い尽くせないほどの人生における「一大事」と言えるのです。
そして、そんな状況に陥った人に対して、あなたが自然に見せるこの「同情」という気持ち。
そこには一切の打算もしがらみもありません。
ただ純粋に目の前の人の最悪を何とかしたい、という思いだけで沸き起こった発想なのです。
「同情」は人間が人間らしく生きてゆくための一つの感情。
決して失いたくないものですよね。
心寄せ
「可哀想」「可愛そう」から連想される言葉の最後の5つ目は「心寄せ」です。
酷い目、悲惨な目に遭った人間を人は放置できません。
何とかして手助けしてあげたい、と思うものです。
それが人間の「本質」なのです。
そしてもしかしたら、その対象が異性であったなら、そこから予想もしなかった「愛」というものが生まれてくる可能性もあるのです。
人は困った人を見たら何をおいても助けてあげたくなるもの。
ただ、それだけの理由です。
そこから思いがけない「愛」が誕生したとしてもその事に対して誰も文句をつける余地はありません。
このような「心寄せ」の発想、これも人間が人間たらしく生きていくための一つの条件なのかもしれませんね。
使い方・例文
それでは次です。
「可哀想」「可愛そう」の使い方・例文を見ていきましょう。
全部で3個のご紹介です。
こんなにまでしなければならない自分が可哀想になった
「可哀想」「可愛そう」の使い方・例文の1つ目は「こんなにまでしなければならない自分が可哀想になった」です。
おやおや、これはかなり自分自身のことが大好きな人なのですね。
どこまでのレベルで「こんなに」やったのか定かではありませんが、自分のことが可哀想になっているのですから相当、自分を追い込んでいるのでしょう。
彼のことを可哀想に思ったりしてはいけない
「可哀想」「可愛そう」の使い方・例文の2つ目は「彼のことを可哀想に思ったりしてはいけない」です。
これはもしかしたら、彼と別れようとしているところ、彼に泣きつかれてあなたの決心が鈍ってしまっているのでしょうか?
一昔前なら、男女の別れ話は、男の方が切りだして女性の方が「嫌だ」と言って泣いていたもの。
それが時代が変わって立場も逆転してしまったようですね。
一瞬だって、彼女のことを可哀想だと思わなかったのかどうか知りたい
「可哀想」「可愛そう」の使い方・例文の3つ目は「一瞬だって、彼女のこと可哀想だと思わなかったのかどうか知りたい」です。
これは彼女のことを密かに思っていた第三者が当の彼氏に対して詰め寄っている場面でしょう。
恐らく第三者も彼女のことが好き。
だから、お節介承知で埒のあかない彼氏に対して詰め寄ったのでしょう。
男女の恋愛関係のもつれ、第三者が入るとあなたが「可哀想」な立場になるかもしれませんよ。
違い知って正しく使おう
如何だったでしょうか?
「可哀想」と「可愛そう」について
・「可哀想」と「可愛そう」の共通点
・「可哀想」と「可愛そう」の違いは
・「可哀想」と「可愛そう」の類語や関連語
・使い方・例文
というポイントを中心にしてご紹介して参りました。
「可哀想」も「可愛そう」も結局、元の意味は同じ。
要はあなたがそのような場面に出くわした時に、今回ご紹介してきたような事を体現できるかどうか、なのです。
そりゃあ、人間誰でも不幸は嫌です。
出来たら末永く幸せに暮らしていきたいものです。
でも、人生は山あり谷あり。
いい事があれば次は嫌な事もやってきます。
だから、「可哀想」あるいは「可愛そう」などと必要以上に自分のことをそういう風に当てはめないことですね。
脳はあなたの思考を現実に変えようとする作用もあります。
出来るならば前向きに、多少の不幸事くらいなら、笑ってごまかせるくらいの心もちで乗り切っていきたいところですね。