「人を許す」。
言葉で言うのは簡単ですが実行しようと思うと、こんなに難しいものもまたありません。
人間は生きてから死んでいくまで、実に様々な出来事があります。
出会いがあり別れがある。
そして無数の信頼と裏切りもあります。
では「許す」、という行為は自身の気持ちの持ち方次第でどうにでもなるような簡単な事なのでしょうか?
「許す」という事を様々な角度から考えてみましょう。
許すとはどういうことか
ではまず「許す」という事を考えてみましょう。
一口に「許す、許さない」と簡単に口にすることが多い言葉ですが、ではどういった部分でその境界線が張られているのでしょうか?
「許す」という事の概念を簡単にみてみましょう。
相手の行動を認めること
「許す」という事は相手のとった行動を自分の損得勘定を一切に抜きにして認める、という事になるのでしょう。
そもそも、人を許せなくなるのはその人と自身とにある種の約束のようなものや法律上の契約関係ほどではないが心を通わせ合っていた何らかの関係が根本に存在している必要があります。
それは相手の事が好きであり、尊敬しているからであり、師として全てを投げ出してまでも信じているからこそ起こってくる感情なのです。
その感情を何らかの理由で放棄されたり裏切られたりした時に、人は怒りの感情と共に相手の事を許し難き存在、という意識に捉われてしまい、その後、簡単にはその感情は消し去れないような状態に陥ってしまう事を指して言うのでしょう。
だから、自分を裏切って相手の行動を認める、というのはそう簡単に出来る芸当ではないのです。
相手の事を思う気持ちが強かった分だけ、「許せない」と思う気持ちも比例して強くなるのですよね。
こういった感情をとにもかくにも綺麗さっぱり脱ぎ捨てて相手の存在を今一度、真っ白な状態に戻す事を「許す」と言うのでしょう。
許せないことを肯定的な考え方に変えること
人が人を「許す」ためにはあなた自身のモノの考え方を常に「オール肯定」の立場に切り替えれば比較的楽に許すという考え方をすることができます。
「許す」「許さない」という事の境界には自身の主観が大きく関わってきます。
自分以外の第三者から見たらどうってことのないような問題でも当人にしてみたら命にかかわるくらいの大問題かも分かりません。
ここが難しいところなのですが、一つでもそういった自分自身のこだわりを持っていると、それに反したり裏切った行動を取る相手に対しては永遠に心を許せる対象にならない、という事に陥ってしまいます。
これではいつまでたっても自分にとって損な生き方であることは誰の目から見ても明らかでしょう。
人生は長いようであって短くもあります。
こだわりは時として相手の事を「敵」に思ってしまう事もあり得ます。
生きていく上で自分の周りに敵を作るのは得策ではありません。
ならば、なるべくそういった不利な状況を作らないためにも相手の事を許せない、と思ってしまう条件を極力、自ら削除する努力を行うことなのです。
それが許せないと思う事でも肯定的に考えて許せる範囲に落とし込んでしまう、「オール肯定」という発想なのです。
「許さない」という気持ちを持ち続けることは不利益
結局、人間、生きているうちには敵は作りたくないものです。
出来るならば味方というか同志や仲間で身を固めていた方がはるかに生きやすいですし、楽です。
楽な生き方を見つけるためにも不利益を被りやすい「許さない」という発想は極力、カットする事が望ましいのですよね。
許す事が出来る守備範囲が広がれば、自身にもたらされるであろう情報や利益はその分、広がっていきます。
逆に「許さない」範囲を広げてしまえば交友関係も狭くなりそれだけ有益な情報が入ってきにくい状況を作ります。
許さない、という考え方は自分にとっていかに損であり不利益を被るか。
冷静になって考えてみたいところですね。