皆さんは今までの人生を振り返って、「屈辱」というものを受けたり感じたりしたことはありますか?
「全くない」という人もいらっしゃるでしょう。
それはそれで非常に目出度いことだと思います。
屈辱なんて経験せずに済むのであればこの先もこれからも永久に受けたくないでしょうからね。
ところが世の中を生き抜く人たちの過半数以上は何らかの「屈辱」を受けた経験がおありの方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
この「屈辱」、思い出しただけでも腹が立ってくるでしょうが、それだけに今後、このような思いをせずにすむよう、心を強化できたらどれほどいいでしょう。
では、今回は「屈辱」について多方面からスポットを当てて研究していってみたいと思います。
屈辱を受けるのってむかつきますよね!
皆さん、屈辱を受けた時って、どういう気持ちになりますか?
間違っても楽しい気持ちにならないことは間違いないでしょう。
恐らくほとんどの方が「ムカつく」か「腹が立つ」かのどちらかでしょう。
そしてその後には尋常ならざる「怒り」がこみあげ自分に屈辱感を味わせた人間を心底、憎いと思ったりするかもしれませんね。
このように屈辱を受けてしまうと人間、ポジティブな発想にはなかなかなれません。
逆に誰かを呪ったり、文句や悪口を言ってしまうなど「ネガティブ発想」に拍車がかかってしまいます。
「屈辱」というものはそれくらい人間に「負」の感情を与えてしまう恐ろしい「仕打ち」と言えるものなのでしょう。
本当に出来る事なら今もこの先も味わわずに済むのならそれに越したことはないでしょうね。
屈辱を受けた時はどんなとき?
それでは実際に屈辱というものを受けた時の状況や場面、その時の気持ちの在り様などについて考えてみましょう。
恐らく想像するだけで吐き気を催すような場面が出てくるでしょうね。
大勢の前で馬鹿にされた
「屈辱を受けた時はどんなとき?」に対しての最初の1つ目は「大勢の前で馬鹿にされた」です。
そう、このケースが最も多く、また最も恨み骨髄に陥るものではないでしょうか?
人間という生き物は、どんな身分であれどのような性格であれ、少なからずとも「プライド」や「自尊心」というものを持ち合わせています。
そしてこの「プライド」や「自尊心」というものは何者からも触れられたり貶されたりしたくないもの。
言わば、自分自身の存在意義であり自らの生きていく上においての「分身」のようなものであるのです。
だから、それを1対1の場面で相手から罵られたりされた程度なら(もっともこのケースでも相手が大激怒するときもありますよ)何とか自制心というものを働かせて自分の感情をコントロールして感情を爆発させないよう気持ちを抑え込むことはギリギリ出来るのです。
しかし、その行為を大勢の面前の前でやられたら、もういけません。
あなたが大切にしていた「本心」や「秘密」が公衆の面前で暴かれるのです。
その屈辱感といったら何物にも変えられないほど腸の煮えくり返る思い出いっぱいになる事でしょう。
このように馬鹿にされる中身が何であれ、大勢の前でそれをやられてしまうと人間の我慢の限界は一気に崩壊し、「屈辱」というものを感じてしまうのです。
とにかく相手の意思に反した行為、特に「馬鹿にする」という行為は慎みましょう。
一生、その人から恨まれ、下手をすると物凄い復讐を喰らってしまう可能性もありますからね。
自信があったものをけなされた
「屈辱を受けた時はどんなとき?」についての2つ目は「自信があったものをけなされた」です。
人間の持つ自信というものは案外脆いものです。
絶対的な強さを持つ「自信」というものはごく一部の人間にしかないのではないでしょうか?
しかしながら「自信」というものは自分自身の生きる理由を裏付けてくれる、他人が入り込むことは許されない神聖なる「聖地」のような場所でもあります。
そんな「自信」というものをこともあろうか、堂々と面と向かってけなされてしまったら…。
並の人間ならば烈火の如く怒り狂うに違いありません。